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No Season To Cry

春っぽくなってきたので色戻しました。
ついでにたまにはシラフで書いてみようかな、
というわけで、現在リピートしまくっている大好きな曲を3曲紹介します。
 
 BOY からみつく
 歪んだ指の向こうに
 繰り返す裏の裏が
 季節の終わりは 機械仕掛けの
 機械仕掛けの
 ファシスト、ファシスト、ファシスト (暗黒大陸じゃがたら 「季節の終わり」)

寒いのは、もう嫌。
というわけで今年は暖かいアウターを大枚はたいて買ったというのに、そんな俺をせせら笑うが如く春一番が吹く。関東はまだだっけ?何?暖冬?エルニーニョ?ネルシーニョ?
確かに、オレは甘かったのだろう。確かに、軟弱になったものです。

でもまあ、どうせなら、とっとと夏になってしまえばいいじゃないか。
Waiting For The Summer Rain Yeah!
何をためらっているのだろうか?

そういえば、昔は冬が好きだったのに、今では夏の方が好きになってしまった。

それもこれも、冬が本当の意味で寒くなくなってしまったからなのだ。

あの、意識を鮮明にせざるを得ない、空気が張り詰めた緊張感より、
全てを平坦にしてしまうような絡みつくような気だるい予定調和な空気を愛し始めている。
もしくは、予定調和な空気の隙間に入り込む一瞬の輝きのほうが好きになったのかもしれない。

 
 今頃は 終わりの季節
 つぶやく言葉はさようなら
 6時起きの あいつの顔が
 窓の彼方で チラチラ
 朝焼けが 燃えているので
 窓から 招き入れると
 笑いながら入りこんで来て
 暗い顔を紅く染める
 それで 救われる気持ち (細野晴臣 「終わりの季節」)


海だな。海の近くに住みたいな。

という、なんとも凡庸且つ、何の根拠も無い意見も、まあそれはそれで受け入れるのかもしれない。
事実、そのようなあいまいな欲望とイメージが頭を支配することによってしか日常が切り取られることがなくなり始めていっている。球筋が素直なんですね。やっぱり。だったら、素直に打ち返すのも悪くは無いということなのだろう。

自分の中で季節と結びついた音楽があり続けた日々が終わろうとしているということに他ならない。
単に情報の記憶が環境と結びつかなくなっている、ということでもあるのだが。
例えば、自分にとってはドアーズの「Moonlight Drive」は極寒の冬の夜に浮かぶ満月と供に回帰されるものだった。(当然人によっては、夏と結びつくのだろう)
「The End」は夏。うだるような暑さ。ナパーム。
(これは地獄の黙示録の影響もだいぶあるなあ)

ちなみに、曲はそれぞれ単体で季節を持っているのだが、総合してアーティスト毎にも季節がある。

ビートルズ→春
ニック・ドレイク→冬
ジョニ・ミッチェル→春
ボブ・ディラン→夏

こういう、全くなんの根拠も無い季節分けが勝手に頭のどこかでなされている。

その音楽をどっぷり聴いていたのがどの季節だったのか、どんな環境だったのかという事にすぎないのかもしれないが、もはや、その時のことは忘れて、勝手な色分けが先行し始めている。
ここでも起源は忘れ去られて、勝手に更新されていくのです。

CD棚を見ながらセパレートしてみると、秋が抜け落ちているのに気がつきました。
秋の音楽が無い。わからん。なぜだ?

ちなみに一番嫌いな季節は春。
冬が終わり、なんだか浮かれたような空気が充満し始める季節。
緊張感がなくなって、どれもこれもが弛緩したゴムのようにグニャグニャし始める季節。
あと、春=毛虫 というイメージが拭えずにいるのもある。

今はまだ春が嫌いだが、これもまた変わっていくに違いない。

そして、気が付けば、春でも、夏でも、秋でも、冬でもない、終わりの季節だけが延々とロールバックすることになるに違いない。

だからこれからは勝手に季節を作ることにしようと思う。
とりあえず今からドアーズのThe End を聴きます。

 
 ねぇアイスクリームをくれないか?
 頭の先まで凍るような
 ねぇ何か言葉をくれないか?
 頭の先をぶっ飛ばすような
 何でもいい 何でもいい
 本当にくれるなら
 ねぇお酒を飲まないか 
 頭の先まで燃えるような (遠藤賢司 「終わりの来る前に」)


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