近況: 最近いまひとつあたりを見ていない。
『トランスフォーマー』以来ツキに見放されたかのように見る映画が面白くない。
『パリところどころ』('65仏)
『北駅』、『サンジェルマン・デ・プレ』など、パリのところどころで起きた短い話をつなげたオニムバス。ゴダール、ロメール、シャブロルはいいとして、注意すべきはジャン・ルーシュとジャン・ドゥーシェを区別すること、そしてジャン=ダニエル・ポレという名前もあるということ。
去年の溝口健二のシンポジウムに来ていたのがジャン・ドゥーシェ。映画作家というよりはカイエ・デュ・シネマ出身の批評家。俺はジャン・ドゥーシェはルノワールのシンポジウムで講演を聴いたことがある。2004年にアフリカで自動車事故で亡くなったのがジャン・ルーシュで、監督としてのキャリアも年齢も全然上。
この映画は意外にもつまらなかった。フィルム状態も非常に悪く、『サンドニ街』の黒いドレスの娼婦は服に陰影というものがまったく無かった。のっぺり感。
とはいえオムニバスというのは何個か印象にのこる作品があるものだけど、かなり前に見てすっかり感動したはずの『北駅』(ジャン・ルーシュ)もこんなもんかと思ったし、期待したロメールはそこそこで、やっぱりゴダール頼みだったけど、まぁまぁ。手紙を間違って出してしまう軽はずみな女のエピソードで、ゴダールの女観がよく出ているのかもしれない。
そこで口直しに、とマキノ雅弘監督作品の『昭和残侠伝』シリーズを見た。
が、『昭和残侠伝 死んで貰います』(マキノ雅弘 '69東映)ほどの感動が無い。
とはいえこの作品群には高倉健の魅力を中心とした中毒性があり、言葉遣いも面白い。「すじのとおらねえはなし」とか「じんぎりゃくさせてもらいます」とかの言葉使いはにやけ面で見続けざるを得ない。
60年代の高倉健を見たことが無い人は畳の上でしか死ねないと思うので、一本くらいは是非見といたほうがいいと思う。彼らはザコキャラを雑魚と呼ぶ。「ザコ」とはやくざ用語か?
T.V.の時代劇と同じでストーリー展開はワンパターンです。
高倉健以外の奴らは大体判断ミスを犯し、それが敵役のやくざに付入る隙を与え、トラブルになり、そのあと重要人物が殺され、健さんが我慢ならなくなって封印していた暴力を使って殴りこみ、というパターン。そこに藤純子の女の話が絡む。あと、池部良がどのへんで高倉健の味方になるのか、とかそういうことにはだんだん飽きてくる。
『昭和残侠伝 唐獅子仁義』(マキノ雅弘・'69東映)
藤純子が芸者役で、健さんに「姐さん」とよばれている。すでに『緋牡丹博徒』でスターだった藤純子を清純役にするのも無理があると思ったのか。そう、彼女は芸者にかぎらず、このように「その道のプロ」という役のほうがしっくりくる。
『血染めの唐獅子』(マキノ雅弘・'67東映)
上の作品をさかのぼること2年、マキノ雅弘がこのシリーズの監督として初めて出てきた作品。ストーリー設定がいまひとつで全然盛り上がらない。高倉健がやくざ辞めてて、火消しの土建屋みたいなことになっていた。そのせいで全体に切れが悪い。
藤純子も池部良の妹という清純役で、ぶりっこっぷりが正直きつい。とはいえ年齢的には当時22歳とそれなりに若かったんだけど、玄人臭さがある。これはいい意味で。
以上でマキノ雅弘の『昭和残侠伝』シリーズは全部なんだけど、彼の著書『映画渡世・地の巻』によると当時のやくざ映画はプロデューサーはじめ会社の制約が多かったみたいで、マキノ氏は刀で斬るシーンばかりだと大衆に飽きられると直感していたらしい。
この本読むと、マキノ雅弘は、藤純子のこと本当に大事にしてたんだということがわかる。
『日本侠客伝』をはじめ、このあたりはまだまだ見るべき映画たくさんありそう。