« 殯の森('07日仏)河瀨直美 | メイン | 不都合な真実('06米)デイビス・グッゲンハイム »

ボルベール<帰郷> ('06スペイン)ペドロ・アルモドバル

ペドロ・アルモドバルの最新作を見た。オープニングは墓場の掃除シーンということで『殯の森』の葬列に続いて「死」のイメージが強い。が、こっちのほうが圧倒的に湿度が低い。シネマスコープで、強風の中で墓場の掃除をする中年の女たちを横移動で撮ってゆく。それがタイトルバックにもなっていて文字が逆から、つまり画面左から現れて右に流れる。

舞台となったラ・マンチャはアルモドバル監督の故郷で、風が強い地域らしい。実際、今は都会に住むペネロペ・クルスたちがこのラ・マンチャを訪れるときはいつも風力発電の風車の横を車で移動してゆく。

ラ・マンチャという故郷を描く、ということでアルモドバルは『バッド・エデュケーション』に続いて自身の子供時代の環境をモデルにした。しかし前作では「登場人物の悪い部分を選んで描いた」が、ここでは全く別の側面を描いている。

選んだモチーフは母親を中心とする、子供時代に周りにいた女性達とその人生・生活・生命。です。はい。

ラ・マンチャは「迷信深い町」として描かれ、ペネロペ・クルスの伯母が亡くなった後の町の人々の様子、「幽霊」に追われて逃げ込んだ男だけの集まり、井戸端会議風に故人を偲ぶ老婦人たちの集まりの場面は、フェリーニを彷彿とさせる。

フェリーニのよう、ということだが、映画が始まってからそのような余裕のある感想が得られるようになるまでにはオープニングの墓場のシーン以後もう少し時間が必要で、これは最新作というイメージ、つまり新しさ、というよりは、登場人物が「チュチュチュ」という派手な音を立てるキスの挨拶、そしてその明らかにアフレコな感じ、それらが相まってアルモドバルの映画にしかないあの異国な感じのせいであった。

並べ方が不思議な構図。ゴミ箱にビール缶、ナイフを洗う台所のシーンの構図、娘がバス停で帰りを待っているシーン。赤と白の横縞の調和。まあこのあたりまで見てくるとだんだんと引き込まれていくようになっている。

volver3.JPG

この映画は、だから予告編などで断片的に見て判断してはいけなくて、それなりの落ち着かない時間をすごしてやっと入り込めるもので、でもいったん入り込んだら、ペネロペ・クルスが店で不意に歌いだす瞬間などにも見えるように、サスペンスでもあるストーリーとは必ずしも関係なく、ぞくっとする瞬間がいくらでも味わえる傑作なのであった。

ヴィスコンティの『ベリッシマ』のアンナ・マニャーニがラスト近くでテレビの画面に現れるところで、アルモドバルがいつも過去の映画にオマージュを捧げる監督だったことを思いだす。
だがこの映画はアンナ・マニャーニというよりはむしろソフィア・ローレン、特にデ・シーカの『昨日・今日・明日』のソフィア・ローレンの大女優が持つスター性を、ペネロペ・クルスが現代に蘇らせてくれるのではないだろうか。そのためのあの胸の谷間ではなかろうか。

30人分のランチを準備するところ。不意に映画の撮影隊の青年が現れ、食材を集めるために店に行き、通りがかる友達と交渉する姿。あのあたりのペネロペ・クルスは本当によかった。あの忙しさ、そして仕切り、すばらしい。

彼女の仲間の、あの死体さえも黙っていっしょに埋めてくれる話の早さ、あるいは娘が母と再会するシーンのやりとりとか、あのあたりにはフランス、イタリアなどのラテン系映画がもつ楽天性がある。

また、楽観から深刻へ1カットだけで簡単にいったりきたりするあの力量もある。ラスト近く、亡き伯母の家の前での母と娘の扉越しの会話のやり取り。すばらしい。


volver1.JPG
あんた昔からそんなに胸大きかったっけ?」(カルメン・マウラ)