テーゲーやさ
沖縄民謡のコードを採るという作業をしていて、使われてるコードが殆ど一緒だという当たり前の事実に気付いたのですが、アレンジの仕方もまた結構パターン化されているという事実に気づく。
だとすれば何が「素晴らしい」と「素晴らしく無い」を分けているんでしょうねえ。
まあ、ベスト、グッド、ベター、ノーマル、ロング、バッド、ファック等、いろいろあるとは思うんですが・・。
研修で沖縄に行ったときに、外の風景を眺めながら車の中で聴いた嘉手刈林昌は震えるほどに凄かった。まあこの場合は社会的に凄いとされている凄さをようやく理解したわけです。アレンジもクソも無い。
とにかく、ああ。そうなんだ。という感じの錯覚に陥る。
「あじまぁの唄」の中で上原知子が目をウルウルさせて唄うとき、あのゴムの切れたようなのシンセの音が、何故か意味を持ち始め、衣装からスカスカのアレンジからなにから格好よく見え始めたりとかする。最高の声と最低のアレンジが何故か最強なものとして見え始める。これに気付くのは映像必須。
りんけんは実はYMOがやった事と変わらないことをやっているんではないか。
細野が「日本」を売ったのと同じコンセプトで「沖縄」を売っている(た)。
その格好良さ。上原知子可愛い。
(まあ「りんけんバンド」も「YMO」も別にそんな好きではないんですけど)
例えば、サム・クックがキング・カーティスバンドをバックにどう考えても最高なステージを作った夜が記録されているのは受け入れられるが、ダニエル・ジョンストンがたった一人でチャチなテープレコーダーの前で下手糞すぎるコードを鳴らして唄っているのが記録されているのは受けいれないとか。
なんかよくわからなくなってきた。めちゃくちゃ。
眠い。ハラ痛い。
とりあえず、重要なのは、今日もメガネの存在を忘れるほどにメガネが俺の顔に馴染んでいて、昔はメガネなんてかけていなかったわけで、今じゃメガネをかけていなくてもずり落ちるのを直そうとしてしまうほどにメガネ文脈に慣れきっていて、ようは、慣れでしかないんだけど、でも、慣れ続けてることを疑い続けなくてはだめなのだというオリジナル無きエンドレスメガネだという事実なのです。メガネーズってことです。
アイ ラヴ メガネ。